[いわゆる過去の想いvol3]死ぬ ということ
今回、全摘手術を受けるにあたり、リアルに死について考えてみる機会がありました。
それまでにも、生まれた時から実家が仏教系の在家の信仰をしており、目に見えないものに手を合わせる(合掌)は、日頃から当たり前の所作ではあり
また、お経を唱えるということについても、意味も分からず、がむしゃらに小学生の時から唱えていたので
紫紺(しこん)の経巻(きょうかん)と言われる、この信仰の基本となる教本の冒頭は暗記していて、今でも唱えられる程なのです
ましてや、施設看護師として日夜、高齢の入居者様(平均年齢は91歳)に関わり
その余生を過ごす場に毎日関わらせていただいているのですから、一般の方達よりは生死について、考える事は圧倒的に多いはずなのです
なのに、なのにですよ、
そんな私でも、実はリアルに死について深ーく考えたのは、全摘手術の前が始めてだったのです
どうして、死について改めて考えたのか?と言うと
全身麻酔というものを体験するにあたり、意識がどうなるのか?授業では習っていたし、患者様には説明してきたり、実際に手術を終えて療養生活をする患者様の看護をしたりしてきましたが、実際に自分の身体で体験する、という事は全く別次元だという事なのです(´╥ω╥`)
所詮、自分の身に起きるときに人間は真剣に考えるのです、
もし意識が無くなっている時に還らぬ身となったら…とか
感覚に違いがあったら…とか
全身麻酔について調べて、意識や潜在意識についても理解して、
家族というか娘達に、大袈裟にも遺書を書いたりもしました。LINEでですけどね〜💦
以下に、その時のLINEの遺書らしきものを添付しますね!
ちょっとだけ大袈裟だと思われるかもしれませんがその時の、私の大真面目な娘達への気持ちです。
こんな感じで、遺書らしき手紙を書いて娘達に送ったりして、真剣に「死ぬ」という事に向き合ったのでした。
その時点で、私が知り得た「死ぬ」ということに関しては、今のほうがより明確に分かってきてはいるのですが
その時点においても、恐れはなくなったことは事実です。
前述している通り、ハートの領域から降りてくるようになった、高次の自分自身からのメッセージによると
私達の死というものは、今まで考えてきた辛く苦しいものでは無く
- 本来はエネルギー体としての私達が、肉体からエネルギー体に戻るために、一つのポータルをくぐり抜ける軽やかなものである
- 間違って死ぬという事は絶対にない
- 人間は、使命を終えた時に死ぬ
- 亡くなった時に一番はじめに見える、地獄のような雰囲気や天国のような雰囲気や迎えに来るものや人や存在などは、その人が生きていた時に強く信じていた、ビジョンである
- 私達の住む、惑星地球🌏も、宇宙の一部でありいわゆる死ぬという事は、地球という次元から上の次元に移行するという事で、スピリットには死ぬという概念は無い。
- 人間が死んだ時に、問われるのは貴方の人生は喜びに満ち溢れていたか?そして、その喜びを十分に分かち合ったか?十分に使命を果たしたか?であり、経済的豊かさや、地位や名誉は全く問われない
という事が、その時点では理解できていました。
だから、自分にとって死は恐れるものではなく、通り抜けて行く過程なんだ…と
そのように考えた後に、次の恐れは、やはり
痛みと苦しみだなぁと、なんか悟りの境地みたいな感じですが
真剣にこういう事を考える時間を持つ事が出来た
手術前後の3週間の療養期間なのでした。
私は、この、死に対する考えを新たにすることでそれまでは、亡くなるという事が不幸で悲しく、暗いネガティブなイメージしか無かったのですが
誰かの死に向き合う時も、身内の死に向き合う時も
お疲れ様ですという労いの気持ちや
素晴らしい人生だった!と後悔してもらわないために
出来るだけ、その方の人生を肯定するような言葉を贈るようにしよう、自分自身の関わりの中でも良いエピソードを伝えて、人生を肯定してもらえるようにしよう!と心に決め、現在のケアの軸にしています。
私達は、入居者様の人生の最終ステージに深く関わる、ある意味、ご家族よりもその場面においてはkeyとなる人間様なのだなぁと
と、いう事で、死ぬということについての、その時点での私の理解した内容と、その時から今にいたるまで、仕事の場面で生かしている事を
書き綴ってみました。
次回は、痛みや苦しみ、病気について書いてみたいなと思います
長文に付き合ってくださり感謝です🧡
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